月の巡りと共に-「那須贅沢時間」14巡り目 「郷土史家 伊藤晴康さん」
新たな目標設定やチャレンジの始まりに適している、新月の日。そんなエネルギーが満ちてくる時に、那須の自然におしえられながら満月化粧水「月子」を誕生させた(株)サクネス代表の澤野典子が那須周辺で素敵な生き方を紡いでいる方をご紹介。あなたの中の新たなスイッチが見つかるかもしれません。
歴史・ロマン・原風景は芦野の宝
「月子」の基になるヘチマは那須町東部、芦野地区の神土という地で月の巡りに沿って、自然に近い農法で育てています。畑のある場所は、芦野の地を治めた武士・芦野氏の平安末期から室町中期にかけての居館があった「芦野氏居館跡」で町指定文化財、史跡になっています。約千年後の今、里山の原風景が多く残る「月子」の畑で、芦野の歩みについて、地元の郷土史家・伊藤晴康さんにお聴きしました。
伊藤さん(以下、伊):平安時代、この辺りは貴族や公家の荘園であった可能性があるんです。八溝山系の山並みに囲まれた谷間にあって、奈良川、菖蒲川に挟まれ、いわば天然の水路に合わせて肥沃な田園地帯が形成された。昔は米経済です。米が作れないと人は住めない。芦野は人の多い、開けた場所だったんです。
澤野(以下、典):選ばれた地だったのね。
伊:そうですね。鎌倉時代に成立した歴史書「吾妻鏡」に初めて「芦野」の地名が出てきます。「(建長元⦅1256⦆年6月2日の条に、)『奥の大道に夜討強盗が蜂起するのでこれを警護致すべき』と鎌倉幕府が街道筋の御家人たちに指示した」とあり、その中に「葦野地頭」の名前があった。葦野=芦野で、当時、既に荘があり、荘を管理する武士が居たことが分かります。この武士が芦野氏の祖と考えられています。
自然形成の肥沃な田園地帯でもあり、芦野谷という大きな谷の東側に位置し、御殿山を含む山々と奈良川によって隔離されて自然の要害を形成しているという地の利を生かし、芦野氏は800年以上にわたる繁栄の礎を築いたのでしょう。
典:そして、この畑のあった場所に館があった。
伊:居館跡の畑地は東西100m、南北120mあって一段高くなっていて周囲にはかつて短冊形に堀と推定される水田があった。そして、内側にはずーっと土塁がめぐっていた。要するに土塁を固めて、敵の侵入を防いだ、防御をしていた。
この辺はだいたい北側に家を建てる。敷地の北側、ヘチマの畑の辺りが館で、通路を挟んで広場、弓を練習する所があって、馬を飼って、畑を作って、お供の人たちの家があって、というのが想像できる。
典:広かったのね。
伊:圃場整備をする前はここに小さな川があって、そこに合わせて田んぼを作ったみたいですね。平安時代末期から鎌倉時代とか当時は湿田に稲を生育する農法で人工的に湿田を造成することは難しかった。だから、自然条件、自然の用水路を活用したんですね。ここから少し離れた、現在の県道大子那須線の北側一帯、小山の東に面した田園のある地帯を「葭添(よしぞえ)」と呼ぶ。「葭の繁茂する地・湿原」を意味しているんです。
典:まもり、生産する上でも選ばれた場所だったのね。畑に武士の住まいがあったなんて感慨深いわ。
館の形式は那珂川町(旧小川町)神田城跡や現大田原市(旧黒羽町)枡型居館に似て、南北軸の長い典型的な「回字型)」の居館であったそうです。発掘調査が進んでいないため建物の詳細な配置などは不明ですが、出土した土師器から室町時代後期までこの居館跡に住んでいたと考えられています。いつの世にか北側中央に熊野権現がまつられていたので「熊野堂」とも称されています。また、神土ともいうのは、明治になり、健武山湯泉神社に合祀されるまで、熊野社が安置されていたことに由来します。
戦国時代になり戦いが激化すると、居館は熊野堂から、芦野の南に位置する山城の館山城に。そして、白河寄りに位置する御殿山の順で移動したと推測されます。
主要道路も「月子」の畑近くを抜ける往古街道から、伊王野、東山道の流れをくむ関街道、そして、江戸時代に入り奥州街道(奥州道中)が整備。芦野の御殿場の麓は城下町として、主要街道である五街道が整備されると、宿駅としての芦野宿が徐々に形成され、関東最北の宿場町として賑わいを見せていきます。主に東北諸藩の参勤交代の交通・連絡に使われ、本陣や問屋場、旅籠をはじめとする伝馬(諸街道の宿駅に常備され,公用の人や荷物の継ぎ送りにあたった馬)に携わる家並みが生まれていったといいます。
典:芦野は賑わいの中心だったのね。
伊:明治の頃までですね。国道が今の形になり、鉄道が通ると黒田原駅周辺に人口が流れていった。急激に人口が減少したのは合併後(1954・昭和29年、那須村、芦野町、伊王野村が合併、「那須町」に)ですかね。
昔は那須町の人口の1割がこの芦野地区にいたけれど、今はどこも過疎化が進み、ひどいところは限界集落。行事、役職の割り当てができなくなっている。我々もいろいろな役職を兼務でやっているんですけれど、本当に人がいない。
耕作放棄地、空き家も増えて管理しきれない状況なので、保全組合を立ち上げて草刈りや竹林の整備などもしています。身に迫る危機を感じますよ。
典:歴史とか知るとすごく魅力がある地なんですけどね。
伊藤さんは元那須町役場職員で、芦野の根古屋という地域にある歴史資料館「那須町歴史探訪館」(2000年10月開館)の立ち上げから10年以上携わり、多くの郷土史の調査、資料編纂も担った方です。実は私も探訪館に勤めていたことがあり、伊藤さんの下で地元ボランティアさん、調査員の方々と楽しく交流しながら、膨大なデータの整理、資料作成のお手伝いをさせていただきました。
現在、伊藤さんは役場を退職後、家業の農業を継ぎつつ、各種組合やボランティア活動、郷土史家としての研究、講演活動に奔走する多忙な日々を送っています。「月子」の畑の周辺整備のご助力も受けて、うっそうとした藪から、健全な田畑に生まれ変わりました。
典:今後、研究したいことはありますか。
伊:古代に伝達方法として用いられた「烽火(のろし)」ですね。駅路である東山道とは別の道、国府や国衙、郡衙を結ぶ伝路が存在したことを示す資料があるんです。烽火を上げた山(台)は、飛山、富山と呼ばれた。その山や駅家からの距離、等間隔で置かれていたであろうことなどを考えて辿っていくと京の都が見えてくる。それを論文にまとめたい。実際に烽火でつないでみたい。
典:すごい!!ロマンが溢れてる!!芦野の歴史、ロマンは宝だと思う。昔の風景も残っているものね。採水のお手伝いとかで都内から来た人も「なんだかホッとする」って言うのも、この歴史と風景があるからだと思う。だから放棄地とかがなるべく整備されると良いのよね。
伊:そうですね。仲間で保全組合を作っているのも、放棄地をなくすためなんですよ。
典:伊藤さん達のおかげで徐々に、芦野の風景が本来の姿に戻りつつある。
伊:この風景をうまく次の世代にもつないでいきたいな、と。5月の連休に筍祭り、6月に田植え祭り、8月に花火、秋に収穫祭とか。芦野の一年を体験できるようにしてね。体験型にするのが一番いいですよね。
典:今、求められているんですよね。「月子」の採水体験も言わば「作業」なのに、多くの方が「やりたい」と。毎年楽しみにしてくれている常連さんも多い。
伊:やっぱり人は、自然と交わるのが良いのかな。
芦野の歴史は人と自然がつくってきた。人と森は互いに支え合って生きていたのかもしれません。そして、過疎化が進む中、森は人を必要としている、人の手を待っているのかもしれません。
年に一度、中秋の名月の日に行っている「月子」の採水の日も間近です。「月子」の畑とたくさんの方に触れ合っていただく機会をつくって、本当に良かったと感じます。
森と人が互いに暮らすバランスを、今、取り戻す時なのかもしれません。
郷土史家・伊藤晴康さん
那須町教育委員会生涯学習課長補佐時代に「那須の自然と文化」など多くの郷土史編纂に携わる。那須町立図書館・那須デジタルアーカイブ「那須地域の年表」監修。