月の巡りと共に-「那須贅沢時間」11巡り目 「那須きものスタイル 菊地厚子さん」
新たな目標設定やチャレンジの始まりに適している、新月の日。そんなエネルギーが満ちてくる時に、那須の自然におしえられながら満月化粧水「月子」を誕生させた(株)サクネス代表の澤野典子が那須周辺で素敵な生き方を紡いでいる方をご紹介。あなたの中の新たなスイッチが見つかるかもしれません。
「着物」ではなく「きもの」
漢字の「着物」からひらがなの「きもの」にすると一気に親しみやすく感じませんか。
正に「きもの」のイメージを体現する友人が那須町JR黒田原駅近くに着物教室を構えています。菊地厚子先生。教室の名は「那須きものスタイル」。今は成人したお互いの息子たちが同じ小学校に通っていた縁で知り合い、教室にも数年通ったことがあります。教室主催のファッションショーで「月子」のPRをさせていただいたこともあり、家族、月子共々親しくお世話になっています。
教室は、単衣和裁も教えていて、この日菊地先生が締めていた帯も手作り。もう十年以上着続けているそうです。菊地先生の溌剌さをさらに引き出すような着こなしは、着物の「特別な日に、特別な人だけ」といった敷居の高いイメージを一気に飛び越えてきます。
菊地先生(以下、菊):きものって日本人の知恵が結集しているの!その面白さに気付いて、知れば知るほど夢中になって、いつの間にかこの世界に入って20年経っていたって感じよ!
瞳をキラキラ少女のように輝かせ、きものとの出合い、歩みを話してくれました。
旧黒磯市の小学校教諭だった菊地先生は先天性の股関節脱臼を持ち、痛みをごまかしながら仕事、育児に奔走していましたが、体は限界に達し、1997年に両脚を手術。自宅療養中の翌年8月末、那須町に大被害をもたらした北関東・南東北豪雨災害の只中、祖母がくも膜下出血で倒れて亡くなってしまいました。さらに次男が登校拒否に。「何か不穏な空気がきている。流れを変えなければ」とすぐ行動。1999年3月、18年勤めた教職の場を後にしました。
菊:何か没頭できるものを探す中、見つかったのが「きもの」だったの。友人と参加した公民館の着付講座で、ただの長い帯が折り方次第で物凄く多様な変化をすることに衝撃を受けて。「このすごい日本文化をみんなにも知ってもらいたい。知らないなんて勿体ない!(笑)」と財団法人民族衣装文化普及協会の宇都宮教室に通って、師範の資格も取ったの。
私:扉がどんどん開いていったのね。
菊:でも当時はまだ「着物」に対して高級、ルールが多くて敷居が高いというイメージがあって入っていいのか迷いもあった。そこで背中を押したのが、亡くなった祖母の存在だったの。祖母は毎日きものを着ていて、「あ、きものは別にかしこまって着るだけではないんだ」って。母もきものを縫える人だったから、実は身近な存在だったのよね。
私:私たち世代のおばあちゃんたちは、普通にきものを着て作業していたものね。そもそもは普段着なのよね。
菊:そうなの。敷居が高い原因に、こういう時にはこういう着物を着なければいけないといったルールづくしがあると思う。でも勉強していく中で、それは売り手側が着物を売る為に戦略的にいろんなルールを設けて、そのルールに則った着物を商品化していったことが始まりなんじゃないかって気付いたの。
私:なるほどね。
菊:だから、「普段着に戻すにはどうすべきか」ってことばかり考えていましたね。まずはお金を掛けないで着るために自分で縫えないとだめだなって独学で和裁を学んで、それには、所作が分からないとだめだなって思ってお茶も習い始めて。着付け、和裁、お茶とほぼ同時にスタートして、突然まるでちがう世界がそこから起きてきたって感じ。
2002年、協会の認定講師として自宅できもの教室を開講。協会講師として、直営宇都宮教室にも在職。さらに、王朝装束着装許しも取得し、着装舞台を経験。並行して厳しい現場着付けの教えも受けるなど探究を深める中、ある思いが生じます。
「お茶は作法を正確に伝えていくことが重要な分野だが、着物は果たしてそうだろうか。着付けの仕方も教室、講座、現場で全然違う。もっと自由でいいのでは―」
菊: 協会に属してちょうど10年。協会を辞めて、2012年に「那須きものスタイル」という形で私スタイルの教室を再オープンしました。
「本当にいろいろやったのよ」
張りのある声と共に菊地さんはある小冊子を見せてくれました。指は懐かしそうにページをめくります。
2017年発行の「懐かしき未來 その2-那須町できものの風が吹き始めた‐」(青空工房)。東京在住の郷土史家、文筆家で那須町にも拠点を置く石井一彦さんが、菊地先生の活動に感銘を受けて出版した一冊です。
先生主宰で「箪笥からきものを出して着る機会に」と2016年に開催した「第二回おしゃらくきものまつり」が紙上で鮮明に展開していきます。
会場となった那須塩原市「割烹石山」内には、お茶席や風呂敷の包み方などの体験会が開かれ、きものに関連した展示もずらり。裂き織り、組み紐、津軽こぎん刺し、草木染、そして、使い込まれた穴の空いたもんぺ。
メインは約150年前に遡って、きものの変遷をたどるファッションショーです。「日本全体の大きな動き」「地元那須町の動き」「きものと女性の関わり」「女性の社会的な地位」の4つの視点を切り口に、1853年ペリーの浦賀来航を機に開国した幕末期の江戸町娘、奥州街道の宿の娘の装いからパンプスに合わせた現代アレンジまでを時代考証を交えて紹介。そして、ほんの数十年前まで農村地帯のほとんどの家が養蚕、綿の栽培を行い、大切に育てて出来上がった反物を無駄にしない為に、きものは直線で布を裁つようにできていること、糸を解けば反物に戻して再活用できることなど。きものに詰め込まれた日本人の知恵、手仕事の妙が全ページに染みわたっています。
菊:典子さんの【(写真家の夫新一朗さんにとって)写真はアフリカの大地の壮大なエネルギーを伝える一つのツールなのよ】という言葉を引用した箇所もあるのよ。この言葉を聞いた時に、「きものは私にとって日本の文化や知恵を伝えるツールなんだ!」って思ったの。
だから、きものを身近に置いて感じてほしいの。
私:「きものスタイル」の着物が平仮名なのは、そういう意味も込めてなのね。
菊:ちょっと柔らかさが欲しくて。
敷居を低くするために20年頑張ってきた感じね。
「そろそろお茶にしましょうか」
菊地先生は颯爽とお茶の準備に。今は珍しい円卓を囲み、先生が立てたお茶と手作りのお菓子で一服。ゆったりしたひとときを共有する心地良さの中、会話は弾みます。
私:今は畑に夢中なのよね。
菊:コロナ禍で外出、冠婚葬祭の機会が減って着物業界が大打撃を受ける只中の去年。母が大けがをして畑仕事ができなくなったので、退職した主人とやり始めたら、すごく面白くてハマった、ハマった(笑)。
私:絶妙なタイミングでハマれるものが現れたのね(笑)
菊:いざ自分でやると、母の手伝いをしていた時には気付かなかった自然の偉大さ、力をすごく感じるの!
典子さんは、自然栽培や月の巡りの力に15年以上前から気付いていた。その原点はきっと、新一朗さんのアフリカの撮影に同行して、毎年あの雄大な自然に触れていたことよね。
私:東京でずっとOLをしていて物質的な中にいた人間だったのに、アフリカに行ったら生き物としての自分を感じて全てが変わったんだと思う。
菊:やっぱり自然から離れたらだめなのね。60数年、自然が身近にあるここに生きてきたのに見えてなかった。向き合わないと分からないことがたくさんある。奥が深い!
私:自分が「生き物」と実感できる時間を、みんなも少しでもいいから持ってほしいよね。那須はそれができる。
あ、「きもの」と「いきもの」って一字しか違わないのね。これは、何かを感じるね!
菊:そうなの!「きもの」は生き物なのよ!
きものは本来、育てる、作る、着るが全て一体で、さらに糸を解いて洗って縫い直したり、染め変えたり。大切なきものは知恵と愛着によって幾度も蘇り、最後はもんぺになり、擦り切れるまで纏われ、最期は竈で天寿を全うし、土に還ってゆく。きものを着ることは、日本人の知恵、自然の英知を纏うことなのかもしれません。
きものの世界を探究し、20年。菊地先生は今、きものを纏い、そして、命の土壌、土に立つ。二つの大きな力に包まれ、ますますパワーアップしていそうですね。
自分に向き合えるツール、時間は持てていますか。
那須きものスタイル
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